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ピアノ

2008年3月12日

目次

グランドピアノとアップライトピアノ

ピアノは本来はグランドピアノを指しまが、広いスペースがとれない場所では、アップライトピアノが置かれることが多いようです。アップライトピアノには、グランドピアノほどの大きさがないため、狭いスペースにピアノを置きたい場合や、連弾用にグランドピアノを2つ並べるスペースがないときなどに、アップライトピアノのスマートな大きさがちょうどよいでしょう。
そのため、学校や幼稚園などの施設では広く使われています。

しかしグランドピアノは、豊かな響きや、弾くときのタッチや、多彩な音色、幅広いダイナミックレンジなど、すべてにおいて表現力が豊かです。
過去の偉大な作曲家たちの作り上げたピアノ曲を弾きこなすにはやはり、グランドピアノのほうが迫力も出ます。
グランドピアノは、ピアニッシモからフォルテッシモまで、きちんと響かせることがで、音がなめらかで伸びが良いこと、音程感が良い、音色に表情をつけることができる、バランスが良くムラがない、トリルなどの細かい指の動きがスムーズにできるなどの特長があります。これらの特長が融合し、より自分の理想に近い音色を生み出すことができるため、アップライトピアノよりも、グランドピアノで弾いたほうが、より自分の理想に近い、完成度の高い曲を作ることができるでしょう。

ショパン

偉大なピアニスト、ショパンのフルネームは、フレデリック・フランソワ・ショパン。
ポーランドの音楽家で、「ピアノの詩人」という異名を持ち作曲家としてもピアニストとしても有名でした。ショパンは、美しい旋律を生み出し、半音階的和音などのピアノの表現様式を広げ、それまでのピアノになかった新しいピアノを生み出すことに貢献したピアニストでもあります。
前期ロマン派音楽を代表する作曲家であるショパンは、その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ノクターンやワルツなど、今日でも彼の作曲したピアノ曲はクラシック音楽ファン以外にもよく知られており、ピアノの演奏会において取り上げられることが多い作曲家の一人です。

ショパンは生涯を通して肺結核に悩まされた病弱な音楽家としても知られています。それは、彼の肖像画の赤みかかった頬などからも知ることが出来ます。彼の作曲にも、そのような繊細なイメージの作風のものもあれば、それとは違った、情熱的な作風のものも多くあります。
幼少の頃のショパンは、ユーモアたっぷりで、ものまねや漫画が得意で、学校ではクラスの人気者であったと言われます。

ブラームス

ヨハネス=ブラームスは、1833年にハンブルクで生まれ、1897年に64歳で亡くなりました。
彼に、最初のピアノのレッスンを施したのは、市民劇場でコントラバス奏者をやっていた父でした。10歳のころ、ピアニストであり、作曲家であったエドゥアルド・マルクスゼンという人物に弟子入りをして、才能を開花させていきます。そして、レストランや、居酒屋でピアノを演奏することで家計を助けました。

ブラームスは、大くのロマン派の作曲家と同じように、ベートーヴェンを崇拝していました。
彼の作風は、ロマン派音楽の範疇にありますが、古典主義的な面も強いといわれています。
ブラームスがベートーヴェンの後継者であると信じている人はたくさんおり、指揮者であるハンス・フォン・ビューローは、彼の交響曲第1番を「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼び、今もそのタイトルが広く使われているほどです。

彼の個性も、ベートーヴェンに似たものがあり、自然を愛し、たびたび散歩にでかけては、子供たちに、キャンディをあげたりしていました。その反面、大人に対しては、無愛想だったといいます。
自分の気持ちを素直に伝えることが苦手で、自分の作品を語ることすらも嫌がるほどだったそうです。
しかし、ピアニストとして優れていたため、友人のサロンなどで、たびたび演奏を求められましたが、その要求に応じることはまれで、ときに応じたとしても、弾き飛ばしていたそうです。
彼には、ただ一人、名前をグスタフ・イェナーという弟子がいました。
グスタフ・イェナーは、ブラームスは音楽的に間違った音はまったく弾くことを許さないきびしい師匠だったと語っています。

ブラームスは、作品が人気を博し、経済的に豊かとなっても、質素な生活を好んでいました。しかし、自分が質素な生活を送る一方で、親戚たちへは金品を惜しみなく渡し、さらには匿名で多くの若い音楽家を支援したといいます。

ブラームスは同時期のピアニストたちに比べ目立たない存在ではあったが、そのピアノの腕のすばらしさは、1859年と1881年に、ピアノ協奏曲第1番とピアノ協奏曲第2番の初演を自分で行ったところからも推測できます。この2曲は共に難易度が高く、これを弾きこなしたブラームスは、非常に高い演奏技術の持ち主だっただろうことがうかがえます。

作曲家としては、19歳以前の作品は、記録はあっても現存しません。
なぜなら、次第に演奏活動よりも創作活動に興味を持っていったブラームスは、作曲を始めたが、自己批判から作品を廃棄してしまったからです。

ソナチネ

バロック音楽で、ただの短い器楽曲のことをソナチネといい、カンタータの器楽合奏の導入曲や間奏のことを漠然とあらわすのに使われていました。
古典派音楽以降には、わかりやすくて演奏しやすい、短いソナタのことをいうようになりました。
たいていのソナチネでは、第1楽章は、ソナタ形式で作曲されますが、展開部が短く作曲されているか、展開部自体が存在しないことがあります。
楽章数としては、だいたい2章か、3章程度であることが多いです。

ソナチネは、ピアノを学んでいる人たちのために編集された"ソナチネアルバム"のためや、有名なピアニストや作曲家たちによる実践例のために、ピアノ曲のジャンルとされがちなのですが、ドヴォルザークの"ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ"など、それ意外のソナチネも存在します。
ソナチネの作曲家として、幅広く知られているのは、モーツァルト、ベートーヴェン、クレメンティ、シューベルト、チャイコフスキー、カバレフスキー などです。
今挙げた作曲家たち以外にも、たくさんの作曲家たちによって作曲されています。

ソナチネは、ピアノを学んでいる、いわばピアノの学習者の人たちが比較的簡単に弾きこなすことができるものがほとんどですが、ラヴェルなどの近代以降の作曲家たちのソナチネの中には、難しい演奏技術や、洗練された音楽性を求める作品もあります。
後者は古典派のソナチネとは異なります。

ピアノ練習曲

ほとんどの練習曲といったものには、曲ごとに修得するべき演奏技術が含まれており、その技術を曲の中で繰り返し弾くなどすることで、その演奏技術をマスターするという形になっているようです。

こういった練習曲は、大きく2つの種類にわけることができます。
ひとつが、ハノンやブラームスといったピアノの練習曲に代表されるものです。
これらの練習曲は、単純な音やリズムを繰り返し練習することにより、演奏技術の向上を目的として作られています。
このような練習曲は、教育的な練習曲のため、単調なリズムや、同じような音をただただ繰り返しているだけになりがちなため、人が聴いて楽しむようなものにはなっていません。

もうひとつは、単純な音とリズムを繰り返し練習することを中心としながらも、人に聴かせる音楽として成り立っているものです。
これらに代表されるのは、ツェルニーなどのピアノ練習曲が挙げられます。
ツェルニーの練習曲などは、先程の練習曲に比べればですが、時に発表会などの人に聴かせる場でも使われる場合があります。

ハノンやブラームスに代表される、いわば機械的な練習曲とは異なった、上級者向けの練習曲というものがあります。

昔の著名な演奏家たちもはじめは初心者であり、しだいに上級者になり、これらの上級者向けの練習曲ができあがったわけです。
それに代表されるものが、ショパンの練習曲Op.10, Op.25やリストの超絶技巧練習曲などがあります。

これらは、どちらかというと芸術的な練習曲と言えるでしょう。
練習曲としてこれらの曲に取り組む人もいれば、発表会などの演奏会で弾くために練習に取り組む人などさまざまです。
これらも、特定の演奏技術の修得のために曲が作られているものがほとんどのため、人にも聴かせられるうえに、自分の演奏技術の向上もはかれます。
演奏技術の向上のために作られた、指の独立運動などの基礎練習を中心として考えられて作られた曲などもあるそうです。

普段の練習曲で、もっとも初歩的であり、ピアノを取り組み始めた方によく使われるのがツェルニーの100番です。
ツェルニーには、先程申し上げました100番 Op.139 のほかに、110番 Op.435 、30番 Op.849 、40番 Op.299 、50番 Op.740(699)、60番 Op.365 があります。
そして、ツェルニーの100番を終えたあとによく使用されるといわれているのが、ブルグミュラーの25の練習曲 Op.100というものです。
指の運動によく使われるのは、ハノンの60の練習曲などがあります。
他にもモシェレスの24の練習曲 Op.70や、クラーマー=ビューローの60の練習曲。
ブラームスの51の練習曲 WoO.6や、 モシュコフスキの15の練習曲 Op.72、 バルトークのミクロコスモス、クレメンティ のグラドゥス・アド・パルナスムなど探してみるとたくさんあるのです。
先程紹介しましたバルトークの練習曲はコンサート・レパートリーとなっている曲なども含まれていて、弾きがいがあります。

少し難しい練習曲としては、たとえば、バッハの平均律クラヴィーア曲集。第3巻はオルガンの練習曲がほとんどのようですが、第1巻と第2巻はオススメです。
他にもショパン の練習曲集 Op.10には12曲入っており、『別れの曲』、『黒鍵』、『革命のエチュード』 などは有名!
練習曲といいながらも、タイトルがつくほど曲として完成度の高いものになっていると思います。ショパンのOp.25も12曲あり、練習曲に最適です。
シューマンの交響的練習曲 Op.13や、リストの超絶技巧練習曲(12曲)はどこかで聞いたことがあるのではないでしょうか。
他にも、パガニーニの主題による大練習曲や、アルカンの長調による練習曲 Op.35、短調による練習曲 Op.39など、上級者向けの練習曲も本当にたくさんあります。

ポーランドに生まれの「ピアノの詩人」"フレデリック・ショパンの作曲したピアノの練習曲は、全部で27曲あります。
これらの曲は、演奏会などで取り扱われることも多く、中には練習曲にもかかわらず、タイトルがついているものもあります。
12の練習曲 Op.10と、12の練習曲 Op.25と、3つの新練習曲の3つの曲集からなる彼の練習曲は高度なものが多く、なかなか初心者には練習曲として弾くことを許しません。
ここでは、12の練習曲 Op.10について、簡単にご説明したいと思います。

この12の練習曲 Op.10の初版が発売されたのは、1833年ですが1829年にその一部はすでに作曲されていました。
当時のショパンは23歳で、若くしてすでに、当時のパリのサロンでは有名な作曲家として、ピアニストとして、多くの貴族に認められていました。
この曲集は、当時作曲活動に熱心にとりくんでいた"フランツ・リスト"にささげられることとなり、この曲集は、2人が知り合うきっかけにもなりました。

簡単に紹介すると、第1番 ハ長調、第2番 イ短調、第3番 ホ長調 『別れの曲』、第4番 嬰ハ短調、第5番 変ト長調 『黒鍵』、第6番 変ホ短調、第7番 ハ長調、第8番 ヘ長調、第9番 ヘ短調、第10番 変イ長調、第11番 変ホ長調、第12番 ハ短調 『革命』となっています。

第3番の『別れの曲』というタイトルの由来は、ショパンを題材にしたフランス映画の邦題であるそうです。
そのため、このように称されるのは日本のみであり、原題は「Tristesse」となっており、その意味は「悲しみ(哀しみ)」や「憂鬱」です。

次に12の練習曲 Op.25について、簡単に説明します。
この曲集が作曲された年代は1832年〜1836年といわれていて、出版されたのは、1837年ごろです。

曲目は、順に、第1番 変イ長調 『エオリアン・ハープ』、第2番 ヘ短調、第3番 ヘ長調、第4番 イ短調、第5番 ホ短調、第6番 嬰ト短調、第7番 嬰ハ短調 『恋の二重唱』、第8番 変ニ長調、第9番 変ト長調 『蝶々』、第10番 ロ短調、第11番 イ短調 『木枯らし』、第12番 ハ短調 『大洋』となっています。

第1番の、「エオリアン・ハープ」のほかにも、「羊飼いの少年」と言われることもあります。
第8番の変ニ長調は、練習曲に最もさわしいものと言われており、演奏会などの前に練習のために弾くのが良いと言うピアニストもいるほどだそうです。
この曲集に含まれる、第11番の「木枯らし」は、聴き手に不思議な印象を与える技巧が含まれていたり、第9番の『蝶々』などは、練習曲の中でも最も短いですが、弾きこなすには、大変な練習を要する曲のひとつでもあります。

ピアノグレード

ピアノには、国家試験などの定められた資格や試験などはまだハッキリありませんが、ピアノを学んでいるうちに、自分が今どれくらいのレベルであるのか気になるとき、多くの人たちが受けるのがグレードです。
有名なヤマハのグレードとカワイのグレードがありますが、ここではヤマハのグレードについて少し。

ヤマハのグレードは、1級から13級まであります。
さらに細かく分類がされており、13級から11級が鍵盤初期学習者用で、10級から6級はピアノ学習者のためのグレード。
指導者のためのグレードは5級から3級となっており、それより上の2級と1級は、演奏者のグレードとなっているようです。
簡単に説明しましたが、この上の級の試験は非常に難しく、合格者は多くありません。

ただ、国家試験などではないため、ヤマハでとったグレードはヤマハ内でしか通用しないともいわれます。
しかしヤマハのグレードなどは知名度も高いので、その取得が難しいという知識を持った方にはすんなりと理解していただけるでしょう。
ピアノグレードは、今自分がどのあたりのレベルの演奏力を持っているのかの目安にすることができます。

資格のために取るのではなく、自分のために取るといった感覚かもしれません。

ピアノ調律師

ピアノの調律師とは、ピアノをより長く、より良い状態に保つためにお手入れをしてくれる存在です。
調律師は、ピアノの88鍵を自由自在に操るテクニシャンです。彼らは、ピアノの88の音すべてを正しい音程にし、さらにその上で、豊かな音色を作っていくのが仕事です。
ピアノは、強い力で弦を張って、それをたたくことで音色を奏でるしくみになっています。
そのため、時間の流れとともに、その弦がだんだんゆるんでいってしまうので、それを調整するのも調律師の方のお仕事です。
一般家庭では、およそ年に1、2回が調律の目安です。

今の日本でピアノを所有している家庭は、およそ5軒に1軒だと言われています。
最近では、ピアノの売れ行きは減少傾向にありますが、それでも、昔から家庭などにあるピアノを良い状態に保つために、調律師の方々のお手入れはかかせないものとなっています。

そして、調律師の方々もひとりひとり経験年数や、感性などが違うので、作り上げる音が違ってきます。
調律するピアノの弾き手が、大人であるか、子供であるか、どのような曲を演奏するのか、どれほど練習しているのか、どのような音色を求めているのだろうか。
など、さまざまな細かい背景や、要望に応えながら、依頼主の満足する音を目指して調律します。

現在のピアノの調律師の状況ですが、全国で毎年、約100人のピアノの調律師が生まれています。
それに対し、現在の家庭のピアノは、販売台数も減っており、飽和状態にあります。
調律の必要性のない電子ピアノが普及していっていることも背景に、ピアノの需要は現在下降気味です。
そんな状態の中で、楽器販売店の中には、調律師にピアノの販売数のノルマまで要求するところがあったりと、決して簡単な仕事ではないのです。
最近では、会社を定年退職したあとや、子供が自立していったあとなどに、自分の楽しみとして、趣味として、高価なピアノを買い求めて、一生懸命に練習している人たちが増えています。今後もピアノの調律師の活躍は期待されます。

ピアノ調律師になるためには、絶対音感がなければならないとか、ピアノが上手に弾けないとよくないとか思うかもしれませんが、決してそうではありません。
基本的に調律師は、2つの音の"うなり"というものを聞いて調律をしています。
むしろこの感覚に絶対音感が邪魔になってしまうということもあるそうです。
この"うなり"を聞くことができるようになるには、とにかく訓練することが大切です。
一度聞き分けることができるようになると、体が覚えてしまうので、年をとってもその感覚を忘れることはないといわれます。

また、調律師になるために必要な演奏経験はありません。
手の大きさがオクターブに届くほどあり、音階がスムーズに弾ければ良いのです。

一般的に、ピアノの調律師になるためには、全国にある20ヶ所ほどのピアノ調律師養成学校に通って訓練をしていくようです。
ほかにも、大手の楽器メーカーなどのなかには、会社内で調律師を養成しているところもあります。
最近増加傾向にあるのが、音楽療法のコースと併せて、調律科を設けている専門学校などです。
調律のプロとして活躍するためには、経験がなにより大事で、とにかくたくさん台数をこなしていくのが一番ということなので、教材となるピアノをできるだけたくさん所有しているところが良いといいます。
訓練が終わったら、就職活動をして楽器販売店や、調律師を派遣する事務所などに勤めます。
他にも、楽器メーカーにある工場などで、出荷する前のピアノを調律するための調律師の仕事もあります。
ある程度の経験を積んだら、独立することもできます。

調律師のお仕事は、依頼主とのコミュニケーションを円滑にはかることも重要です。
休日などは、所属する会社などにより異なり、お仕事は依頼主の方のお宅に訪ねて音を出すため、ほとんど日中が中心です。
収入は、やはり所属するところによっても、雇用形態によっても違います。技術レベルや、勤続年数などに応じても違うようです。

ピアノに飲み物をこぼしたら

飲み物を飲みながらピアノを弾いたりするとき、うっかりピアノに飲み物をこぼしてしまったことってあるでしょうか。
液体などがピアノの中に入っていってしまうのは少々ゆゆしき問題です。
なぜなら、ピアノを形成している部品には、木でできたものもあれば、布地やフェルト類、金属など他にもいろいろな素材が使われているからです。
このひとつひとつの部品が、ピアノにとっては欠かせないものたちとなっています。
そして、これらの部品に液体などがかかってしまえば、当然のことながら、品質が変わってしまうことになり、故障や、品質が劣化してしまう原因となりうるのです。
その液体の種類や、量によっては被害が甚大に及ぶケースもあります。
そうなってしまったら、急いで鍵盤にかかった水分をふき取り、調律師などの専門家にみてもらいましょう。
放置しておくことは、被害を大きくする可能性があります。

ピアノカバーについて

ピアノ本体をそっくりと包み込んでいるマントのような黒い大きなカバー、あの大きなカバーは、ピアノにとっては本当に必要なのでしょうか。
今まで学校や幼稚園では必要不可欠なものであるということで使い続けられていました。しかし長期的に見ると内部保護の観点から逆効果になってしまうことがあるのです。
たとえば、一般家庭でこのカバーをピアノにかけたまま4〜5年ほど放置してしまうと、害虫の巣になってしまったりします。
たとえそこまで行かなくてもも、ピアノの内部の空気と外の空気との交流がなくなってしまうため、部品である木やフェルトが水分を吸って、カビやさびなどの原因になってしまう可能性もあります。
アップライトピアノの上にかけるトップカバーについてですが、今の日本では必要不可欠なものであるという感覚で、ピアノの付属サービス品7つ道具のひとつとしてほとんどついてきていたものでした。
しかしカバーをつけたまま放置してしまうと、ピアノにとって良い影響が与えられるかどうかは微妙なところです。
ですので、定期的にピアノは使うのが良いということです。

ピアノのコンディション

ピアノにとっての大敵は、湿気ということもあり、袋に入れられた防湿剤はたくさん使われています。
ただし、ピアノというものは密閉された箱ではありません。
外の空気といつも接しているわけですから、恒常的湿気の多いところなどでは、どんなに湿気を吸い込んだところでいつかは限界がきてしまうでしょう。
有効なのは部屋の中に除湿器を置くことです。
除湿器を部屋の中に置くことで、湿度の調整をしたほうがはるかに効率が良いと思います。
しかし、どんな除湿剤であっても、調律師の方にピアノの状況を判断してもらい、除湿剤などの必要性を認めたうえでの定期的な交換をしていくことができるのなら、それは効力のあるものになるでしょう。
またさび止めのなかには、虫除けの効果も兼ねたものがあるので、湿度の高いところや、海辺などには欠かせないものなのです。

虫除けは、古くなったピアノなどには必要不可欠です。
たとえば、防虫効果の切れてしまったピアノに使われている上質なフェルトですが、これは衣服類についてしまう小さな蛾の幼虫などが好んで食べます。
最近の虫除けには、強いにおいがしない防虫剤などもあるので、においが気になって使うのをためらっていた方は是非探してみてください。
特に都会や、集合住宅地にお住まいの方には、ゴキブリが侵入してくる可能性も十分に考えられます。虫除けはできるかぎり入れておくことがオススメです。

ピアノの調律の必要性

人間が定期的に病院に行ったりして、悪いところを見つけて治さなければならないのと同じようにピアノにもそんなメンテナンスが必要です。
人間は病院などで定期健診を受けますが、ピアノには調律師さんたちの手によって「調律」ということをしてあげなければなりません。
なぜなら、私たちの使っているピアノの中には、木材や羊の毛などの天然のものから作られている非常に精密な部品がたくさん使われているからです。
それらは、天然のものから作られているため、日々の気温の変化や湿度などにとても敏感です。
人間は、季節の変わりめに風邪をひいたりします。ピアノもそれと同じように、暑さや寒さなどの影響を受けて、音が変わっていってしまうのです。ピアノは普段弾いていなくても、そこに置いてあるだけでどんどん音が変わってしまうということです。
また、ピアノの弦には、一本あたりに約90kgと、1台20tほどの強い力がいつもかかっているので、時間が過ぎることによっても、音が変わっていってしまいます。ピアノもわたしたちと同じように生きているみたいですよね。

ピアノがいつまでも美しい音を出し続ける手助けをするために「調律」という行為はとても重要なことです。
定期的に調律をすることを心がけることが、なじんだピアノといつまでも一緒にいるためには不可欠なのです。

カワイのピアノ

カワイ(河合楽器製作所)は、創業者である河合小市という人物が、日本楽器製作所を退職したのちに河合楽器研究所を設立したことに始まります。
河合小市氏が退職したあと、河合小市氏を慕って、日本楽器製作所で働いていた平出幸太郎氏、県松太郎氏、伊藤勝太郎氏、斉藤哲一氏、森健氏、杉本義次氏、青木金吉氏などの技術者たちも小市氏に続いて次々に退職していきました。
そして彼らは、1928年にグランドピアノの製造を始めま、翌年の1929年には、河合楽器研究所を河合楽器製作所と改めました。
小市氏の名声を知る楽器販売店たちが、続々と取り引きを希望したため、業績は年々大きく増えていきました。
1952年に小市氏が亡くなり、娘婿である河合滋という人物が社長に就任します。
河合滋氏は、事業を大幅に拡大しました。
そして1980年に、グランドピアノの専門工場である河合楽器竜洋工場が完成しました。
その翌年の1981年には、カワイフルコンサートグランド「EX」の生産が開始され、ますます河合楽器製作所は伸びていきます。
カワイは、現在の日本において、ヤマハと並ぶ代表的なピアノメーカーとなっています。

ヤマハのピアノ

日本のの最も有名なピアノメーカーがヤマハです。
明治21年(1887年)、静岡県の浜松市で暮らしていた、宮大工の山葉寅楠(やまは とらくす)(1851年4月20日生、1916年8月8日没)という名前の人物が、浜松小学校で使っていた足踏みオルガンの修理を頼まれ、見事修理したことからオルガン作りを開始します。
そして、明治33年に記念すべき第一号の国産のアップライトピアノである「ヤマハカメンモデル」を完成させました。
まだそのころは、海外から部品を輸入して組み立てていたそうです。
1902年、ヤマハ株式会社(日本楽器製造株式会社)はグランドピアノの製作に着手し始めました。
そして、大正15年(1926年)に技術指導と製品改良の着手のために、ベッヒシュタインの技術者であるエール・シュレーゲル氏を招きます。同じ年、労働争議が勃発し、昭和2年には川上嘉市という人物が社長に就任いたしました。
昭和25年には、戦後の生産を開始します。
日本楽器は川上源一氏を社長に、コンサートグランドの製作をはじめました。
コンサートグランド(CF)は1967年に完成します。

激動の日本を生きてきたヤマハは、今も伸び続けています。

ピアノの歴史

【ピアノ以前】

バロック期ころに発明された楽器を、さまざまな楽器製作者が少しずつ改良していったのがピアノの歴史です。

ピアノが誕生する前、クラヴィコードと、チェンバロと言う楽器がありました。チェンバロはバロック期に登場しました。
クラヴィコードは、紀元14世紀ごろの誕生であると言われています。
ルネッサンス期に主流であったクラヴィコードの音域は、4オクターブ程度がほとんどで、ヨハン・ゼバスティアン・バッハの愛用していたクラヴィコードは5オクターブあったそうです。
クラヴィコードは、とても簡単な構造をしており、2つの駒の上に張られている弦をタンジェントと呼ばれる別の駒で突き上げて音を出していたため、音量がとても小さく、現在のピアノで言うとピアニッシモからメゾ・ピアノ程度の音量しか出なかったため演奏会や合奏には不向きでした。
そのため、バロック期にはチェンバロに主流の座を奪われてしまいます。

別名でハープシコードとも呼ばれるチェンバロは、クラヴィコードよりは音量が大きかった反面で、ピアノでは欠かせない強弱をつけることができないと言う欠点がありました。
ちなみにチェンバロはドイツ語でハープシコードは英語です。
他にも、フランス語ではクラヴィアサン、イタリア語ではクラヴィチェンバロと呼ばれているそうです。
各国で違う呼び名がつくほどに、このチェンバロは世界各国で愛用された楽器なのです。
ただ、フランスでは、クープランやラモーなど著名な過去の作曲家たちがチェンバロ用の曲をたくさん作ったのに対し、ドイツではバッハでさえ、チェンバロ用の曲は「イタリア組曲」や「ゴールドベルグ変奏曲」くらいしか作られなかったようです。
ドイツではあまり主流にならなかったのかもしれません。

【クリストフォリの発明】

1709年、イタリアにバルトメオ・クリストフォリと言う名前の楽器製作者がいました。
彼は、打弦機構を持つ新しい楽器を発明し、打弦機構を持っていることによって、クラヴィコードとチェンバロの2つの長所をあわせもつ当時では、画期的な発明を成し遂げました。
ちなみに2つの長所とは、クラヴィコードの音の強弱が出せるところと、チェンバロの音の大きさのことです。
この発明品は、『ピアノ・エ・フォルテ・クラヴィ・チェンバロ』と呼ばれました。つまりは強弱の出せるクラヴィ・チェンバロという意味で、これが略されて現在のピアノと言う呼び方が生まれたと言われています。
ただ、当時はまだチェンバロの全盛期であったため、ピアノを使った作曲家は歴史には残っていないようです。
原因としては、当時のピアノ自体が作曲家の要求に応えるほどの演奏レベルを持っていなかったためと考えられます。
彼の発明したピアノの特徴として、まずハンマーの部分がフェルトではなく、羊皮紙を何層にも重ねられた表面に皮を貼ったものであったこと、アクションの伝達率が現在のピアノが1:6であったのに対し、1:8であったこと、チェンバロと同様に鍵盤のあがきが、現在では10mmなのに対して6mmであったことが挙げられます。

他にも、クリストフォリは1726年に、エスケープメント、ダンパーを発明しました。
それらをクリストフォリの弟子であるジルベルマンが改良して、ハンマーフリューゲルと呼ばれるものを作ります。
1736年にJ.S.バッハにこのピアノを紹介し、1747年には、バッハがフレデリック大王にこのピアノを使ってピアノを演奏したと言う記録が残っています。

【スタインの発明】

チェンバロ製作者であった、スタインと言う名前の楽器製作者が、1775年に独自のエスケープメント機構を兼ね備えたピアノの製作に取りかかります。
そして彼は、当時のピアノとしては、とても弾きやすい軽やかなタッチだったと言われているほどのピアノの製作に成功したのです。
この頃では、ピアノのハンマーアクションの完成度も高くなってきており、たくさんの作曲家に受け入れられるようになります。
そして、1756年にオーストラリアで7年戦争が勃発したことをきっかけに、多くの楽器製作者がイギリスやフランスに移住します。
『南ドイツ・ウィーン派』と言われているのは、スタイン、ジルベルマン、シュトライヒャーなどの製作者です。
『イギリス・フランス派』と言われているのは、ブロードウッド、エラール、プレイエルなどの製作者です。
大きくこの2つの派にわかれます。

1777年に、モーツァルトがスタインのピアノを弾く機会があり、とても感激したことが伝えられています。モーツァルトはスタインのピアノを晩年まで愛用したそうです。
当時のピアノにはダンパーペダルはまだ無く、棚板下にあるレバーをひざで操作するタイプのダンパーだったそうです。
しかし現在のピアノのように鉄骨フレームや鋼鉄弦が使われていたわけではないので、それ程音量も大きくなかったため、止音のあまり良くないダンパーであっても充分演奏にはたえるものであったようです。

【ペダル・アップライトピアノの発明】

1783年には、イギリスのジョン・ブロードウッドと言われる楽器製作者がペダルを発明しました。
ペダルは今ではピアノには欠かせないものですが、当時彼が発明するまでペダルは棚板下にあるレバーをひざで操作するタイプのダンパーでした。
1791年に亡くなったモーツァルトは、ペダルの存在を知っていてもペダルの付いたピアノでは作曲をしなかったそうです。ということは本来のモーツァルトの曲にはペダル記号はなかったということになります。

ダンパーペダルの演奏に与える効果はとても大きく、ベートーベンはブロードウッドの製作したピアノを愛用して、たくさんのピアノ曲を作ったといわれています。
ピアノの音域も5オクターブに広がり、さらに、ブロードウッドは1808年に鋳鉄プレートを持ったグランドピアノを考案していました。

そして1800年には、最初のアップライトピアノがホースキンによって発明されます。
鉄製のフレームを持っており、響板を支えるもので現在のアップライトピアノの原型とされます。ただ、音量が非常に小さかったため試作として終わってしまいました。

そして1821年にはフランス人であるピエール・エラールが、イギリスに渡り多くのピアノの改良を行いました。フランス革命がまだ始まる前です。
こうしてピアノはたくさんの楽器製作者たちによって、現在のピアノに少しずつ近づいていきます。

【産業革命とフランス革命】

18世紀後半に起こった産業革命により、ブルジョアといわれる富裕層の市民階級が生まれました。
そして彼らは、貴族社会の象徴でもあるピアノを手に入れようとししてピアノの需要が急増して行きます。それまでの家内工業的な少量生産では、供給が追いつかなくなってしまいます。
そのため、次第にピアノは工場での大量生産へと移り変わっていき、生産規模はまたたくまに拡大しました。
そしてその際に、ピアノにとっていくつかの画期的な技術が導入されていったのです。

また、フランス革命では、それまで音楽家の庇護者であった貴族社会が崩壊しはじめ、多くの音楽家は職場を失ってしまいました。
そのために職場を失った音楽家たちは、生きていくために大衆社会に進出せざるを得なくなったのです。
そして演奏様式も今までの小規模のサロンではなく、大ホールにたくさんの聴衆者を集めたコンサートのような形をとるようになっていきました。
そのためピアノはさらなる音域の拡大と音量の増大の必要に迫られました。

フランスに、ピエール・エラールという名前の人物がいました。
彼は1809年に、フランス革命の前にイギリスに渡り、当時のピアノにたくさんの改良を加えていったのです。
そしてその彼の発明の中でも、最高の発明であると言われているのが「レペティションレバー」の発明です。
これは、鍵盤の動作をハンマーという部分に伝えるジャックをすばやく始動位置に復帰させることにより、いままでよりも早く連続打鍵をすることができるようにするものです。

そしてその後の1821年には、これにさらに改良を加えてダブルレペティションが完成します。
これによって、打鍵した鍵盤を完全に始動位置に復帰させることをしなくても、次の打鍵を行うことができるようになりました。
エラールの発明はグランドピアノのためであったそうです。

1811年には、ロバート・ワーナムがバックチェック、ブライドルテープを発明します。
構造の都合でアップライトピアノにはレペティション機構を採用することができなかったため、これらの機構の発明はアップライトピアノの演奏力を飛躍的に高める結果になりました。
今現在においても、この技術はアップライトピアノに採用されています。

このころに生まれた有名な作曲家には、1810年生まれのショパンやシューマン、1811年生まれのリストがいます。リストは、1824年にエラールのピアノを演奏したという記録も残っています。

【アメリカのピアノの歴史】

1825年に、アメリカでボイラー工場を経営していた経営者のアルフェーズ・バブコックは本格的な鋳鉄製のフレームを作りました。
当時のピアノの音域は演奏者の要求があり、4オクターブであったものが次第に5オクターブに増え、6オクターブへと増えていき、木製の支柱のみでは鉄線や真鍮線であってもその張力を支えきれなくなっていたためです。
鉄骨でブロードウッドが補強し、バブコックが鋳鉄製フレームを考案しました。

そして1819に、ダイアモンドダイスが発明されて、1835年には精度の高くなった鋼鉄線が発明されると、ピアノに取り入れられました。
そうすることで、張力が10kgの鉄線のピアノ弦よりも、張力が80kgである鋼鉄線のピアノ弦のほうが比べ物にならないほど音量も大きく、倍音も豊かになりました。
このため、鋳鉄製のフレームでなければピアノの全張力を支えることはできなくなったのです。

そして1840年、チェッカーリングという人物がグランドピアノのために総鋳鉄製のフレームを考え出しました。
これは、バブコックのスクエアピアノ用鋳鉄フレームとは違って張力を計算に入れた本格的なもので、現在のピアノと同じようにチューニングピンの部分のプレートとアグラフブリッジを一体化したものだったそうです。

1845年にはチッカーリングは、スクウェアピアノに交叉式弦を発明します。
演奏者の要求のために6オクターブ以上の音域であったピアノの低音域の弦の長さは、ピアノ本体に収まりきれない長さになっていたのです。
そこで低音の弦は斜めに張ることによってピアノ本体の大きさを小さくすることができました。
さらに、アップライトピアノでは高さを低くすることでコンパクトにすることが可能になりました。
その後トーマス・ラウドという人物がそれをグランドピアノに採用したのです。

ピアノは、アメリカでの大量生産による低価格化の進行とアップライトピアノの市民層への普及の拡大という大きな変化を経験します。
低価格で良質なアップライトピアノがキンボールや、ボールドウィンなどによって大量に作られました。

第二次世界大戦が勃発し、ヨーロッパは荒れ果て、ドイツなどのピアノメーカーは生産を休止せざるを得なくなりました。
しかし、戦勝国であったアメリカにいたスタンウェイは戦後も生産を休止することもなく、コンサートグランドピアノの分野において確実に力をつけていきました。

スタンウェイは、1849年にドイツからアメリカへと渡っています。
そしてスタンウェイ一族は1853年に、ニューヨークでアップライトピアノを作り始めました。
その後の1856年には、グランドピアノの製作に着手して、1859年には低音部の軟銅線を2重にして巻くという方法により弦の長さを短くすることに成功するのです。
すでに当時では、現代のピアノと同じ7オクターブと4分の1で、ペダルの2本付いたピアノが作られていたことでしょう。
そして、その後も第二次世界大戦の被災を免れた彼らは生産を続けていき、世界シェアを独占することができたのです。
スタンウェイのピアノは世界の一流のピアニストたちに愛され続けています。



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